パチンコ屋の店内に入った耕作は二人に見つからないように注意しながら二人の姿を探し始めた。ここで見つかっては全ての計画が無駄に終わってしまう。
 店員に不信感を抱かれないように、さも台を見ている振りを装って耕作は二人の姿を探し続けた。それにしても、平日の十時だというのにパチンコ屋の中はほぼ八割がた満員であった。
 世の中にこんなに暇を持て余している人間がいるのかと思うと複雑な気持ちが込み上げてくるのだった。
 二列目に移った時、ようやく二人の姿を見つけることができた。ここでも二人は仲良く並んでパチンコを打っていた。しかも、うまい具合に二人の座っているパチンコ台はさかんに頭上についたランプを点滅させていた。フィーバー継続中のランプである。
 なかなか悪運の強い連中であった。だがしかし、それも今の耕作にとっては好都合であった。要するに、そのランプが付いている時は台を離れられないのだ。
(まったく、どうしようもないくらい乳離れのできない阿呆な男達だ)
 二人を見る耕作の表情には冷たく凍り付くような微笑みが浮かんでいた。

 手袋をはめた耕作はスペアキーを使って三宅の車に乗り込んだ。うまい具合に三宅の車の左隣には窓を黒いフィルムで覆ったガラの悪そうな車が止まっていた。こんな車を恥ずかし気も乗り回している奴は頭に虫が沸いているようなノー天気小僧か、世間様に申し訳が立たないような事を職業にしている男に違いない。ダブル天誅のチャンスが向こうからやって来たようなものだ。耕作は嬉しさで体が震えてきそうになるのだった。
 三宅の車のギアをバックに入れた耕作は、ゆっくりと車を後退させ、そして今度はギアをドライブに入れ替えるとゆっくりと前進させた。
 左にとめてあったガラの悪い車の脇腹に三宅の車のバンパーを接触させた耕作は、さらに右足に力を入れた。耳を覆いたくなるような破壊音を立て、三宅の車は左隣の車のドアを少しだけへこませた。一瞬、耕作の脳裏に『犯罪行為ではないか?』という疑問が浮かんできたが、ここまで来たら後に引くことはできない。
 天使の声を無視して耕作はハンドルをさらに左に回した。

 自分の車に戻った耕作は大急ぎでパチンコ屋を後にした。そして、公衆電話を見つけるとパチンコ屋に電話を入れた。
「もしもし、お宅の駐車場に止まっている白い車が接触事故をおこしてますよ。ナンバーは…」
 電話を切った耕作は直ぐに会社に戻って課長のデスクの後ろにあるキャビネットに三宅の車のスペアキーを戻した。
 完璧である。パーフェクト天誅の成立。耕作は美智子の入れてくれたお茶を水筒から湯飲みに入れて一人静かに乾杯をした。
                 
 半時間程すると、課長から「会社の契約している保険会社の電話番号を教えてくれ」と電話が掛かってきた。あきらからに不機嫌そうな声であった。

 そして夕方。耕作が営業日報と得意先から電話で注文を受けた商品の仮契約書を書いていると、肩を落とした三宅が課長と一緒に会社に戻ってきた。俯きながら事務所に入ってきた三宅の唇と左目の上は見るも無残に大きく腫れていた。多分、ガラの悪い車の持ち主に二三発殴られたのだろう。
 顔面蒼白の三宅は課長に促されて部長室に消えて行った。
 耕作は楽しくて楽しくて仕方がなかった。デスクに仁王立ちになって阿波踊りでも踊りたい気分だった。しかしここは会社の中である。かろうじて残っていた理性の力でそれを押し込めた。
 返す刀で進藤にも天誅を加えてやろうかと思った耕作だったが、心配そうに部長室を見つめている哀れな様子に免じて進藤への天誅は免除してやることにした。一瞬、甘いかなという気持ちが頭を横切ったが、今の耕作にはそれ以上の生け贄は必要ではなかった。

 しばらくの間、耕作の天誅は休憩期間に入っていた。耕作の考えている人生最大の天誅はいつでも出来るというものではなかった。だからといって人の良いおじさんを演じていたわけではない。チャンスがあれば必ずリトル天誅は実行していた。
 例えば、残業で遅くなった電車の中、化粧のきついOLが酒臭い息をプンプンさせて電車に乗り込んできた。そして、濁った目で辺りを無遠慮に見回し耕作の隣の空いた席に座った。自分から耕作の隣に座ってきたくせにOLは汚い物を見るような目付で耕作を眺めていた。それからわざとらしく耕作を避けるようにお尻の位置をずらした。
 そんなに耕作の隣に座ることが嫌なら立っているか次の車両に移って空いた席でも見つけに行けばいいのに、あまりにも無礼なOLの態度であった。
 そんなOLの態度に常識人を自負している耕作は知らん振りをしていたが、本当はしっかりとチャンスを伺っていた。そして、そんな耕作の思惑を知らずにOLは他愛も無く眠り込んでしまった。
 嫌がっていたはずなのにOLは電車の揺れにまかせて耕作の肩に頭を預けてきた。まさに鴨がネギをしょってやって来たようなものである。
 耕作は少しだけOLの方に首を傾げ頭をボリボリとかきむしり、散々にフケをOLの頭に振り掛けてやった。しばらく風邪気味で風呂に入っていなかったから効果的な作戦であった。

 人通りの少ない公衆電話ボックスで、茶髪ルーズソックスのイカレタ女子高生がタバコを吹かしながら電話をしていた。明らかに耕作の大嫌いな生意気娘である。ここでも平成の『世直し大明神』山路耕作は天誅を加えてやった。
 電話ボックスの横に立っていた電柱に耕作はオシッコをした。最後の一滴まで絞り出されたオシッコは景気良く泡を立て電話ボックスの中に流れ込んで行った。別に女子高生に耕作のイチモツを見せたわけではないからワイセツ物陳列罪にはならない。
 女子高生は突然流れ込んできた水が最初のうちは何なのかわからなかったようだが、その後に強烈な匂いが漂ってきたためにオシッコと気付いたのだろう。狭い電話ボックスの中で靴がオシッコに触れないようにパニックになっていた。しかし、時既に遅しである。ルーズソックスには黄色い液体が染み込んでいた。
 生意気娘に天誅!
 耕作はズボンのチャックを直しながらすっきりとした顔付きで家路に向かうのだった。
 美智子は最近の耕作が妙にはしゃいでいるのが少しだけ気になっていた。完全に何事かに浮かれているのだった。以前の耕作は良き父であったし、良き夫でもあった。何より、付き合っていた時と変わらない若々しい感覚を身に着けていた。
 ところが、最近の耕作はテレビを見ていても若いタレントが画面に写ると妙に年寄り臭い非難の言葉を画面に投げ付けるのだった。 それに、以前は毎日出勤前に耕作なりのファッションへのこだわりで気にしながら締めていたネクタイも最近ではともかく一応ネクタイは締めた、という感じで曲がっている事も気にせず出掛けて行くのだった。
 要するに、一気に坂道を転がり落ちるようにオッサン臭い人間になってしまったのだった。中年にさしかかり、世間体を気にしなくなった分だけ耕作の肩から力が抜けた。以前に増して良き父にはなったが、美智子は物足りなく感じていた。
 そして何より、独り言が多くなった事が気掛かりであった。
 ところが、当の耕作は美智子の心配にはお構いなしに急速にオジン化を進めていた。
 決行の日は来た。
 この日のために耕作は作戦を練りに練っていた。
 この日は耕作の課が行う慰安のための飲み会の日だった。昔は一泊二日で旅行をしていた。ところが、最近の不景気で旅行は取り止めになり三年前からは近所の決して高級とはいえない料亭で催す飲み会だけになってしまっていた。
 旅行が取り止めになった時、耕作以外の人間は「残念だ」と本当に心から残念がっていたが、耕作だけはホッとしていた。
 旅費は会社の親睦の経費で賄えるのだが、旅行先では二次会のスナックに行ったり、あるいは誘われるままにイカガワシイ場所に行くことが多かった。そんな時は当たり前の話だが本人負担になっていた。小遣いに余裕の無い耕作にとってそんな金はまさに血を吐く思いで支払わなければならない金だった。それを断ると「付き合いの悪い奴だ」と陰口を叩かれる。どっちにしても課の旅行は耕作を窮地に追い込むだけの行事でしかなかった。だから、そんな旅行が中止になって耕作は心の底からホッとしていた。

 仕事を早めに終えると営業一課の人間はそそくさと会社を後にした。空はまだ明るかった。
 耕作はこんな早い時間に会社から堂々と出られることに喜びを感じていた。しかし、隣を見るといつものように見慣れた会社の人間が一緒であった。残念な気がしないでもなかったが、本日の計画の事を思うとそれでも妙に嬉しくなってくるのだった。

 決して一流とは言えない料亭の二階にどやどやと上がると既に料理が並んでいた。課長を床柱の前に座らせると全員が入社時期の順に上座から座っていくのだった。当然三宅と進藤は一番末席になる。仕事をさぼってパチンコ屋で事故をして以来、三宅は本当におとなしくなっていた。それが、進藤とともに一番末席で座っているとますます小さく、そして可愛く見えて、耕作は安らかな満足感を持つのだった。
 課長の挨拶が終わると課長の次に年長の月井の乾杯で会は賑やかに始まった。
 旅館の宴会場から近所の三流料亭に場所が変わっても段取り及び式次第は変わらない。些細な事だがその日の耕作にとっては全てが嬉しく、そして満足できることだった。
 乾杯が終わると誰からともなく課長詣でが始まった。課員が順番に課長に酌をしに行くのである。会社勤めの人間にとって、この一見どうでもいい行事は他人の意思によって翻弄される自分の人生を己の才覚で少しでも修正・改善をすることの出来る数少ないチャンスであり、空しい努力なのであった。
 同期の岩崎がいち早く徳利を握り締めて立ち上がったのを耕作は見逃さなかった。あんまり早いと先輩の鋭い視線によって粛正させられてしまう。列の後尾に着くタイミングが大切なのである。
 岩崎のスタートはあきらかにフライングであった。耕作よりも三年程入社の早い山田や今出の視線が岩崎に突き刺さっていた。
 岩崎のフライングには訳があった。入社して十五年、そろそろ岩崎は大阪に帰りたがっていた。
 東京の生活に疲れていた。本当なら本社採用は名誉な事だが、大阪のガサツさと気取りのない人間関係に慣れていた岩崎にとって東京の生活は心身共にぐったりとなってくるのだった。
 会社からの補助があるというもののマンション住まいは岩崎家の家計を相当に圧迫していた。大阪には岩崎の親の家がある。それに土地も僅かだが生前分与という形で貰っていた。大阪に帰れば申し分ない生活が送れるはずなのであった。
 そんな岩崎の事情を会社の人間はほとんど知らない。耕作は同期のよしみで時々話をする岩崎から何度か聞かされていた。
 耕作達よりも三年程入社の早い三山が岩崎の前に割り込んで課長に酌をしようとしていた。岩崎は困ったなという表情をした。

「殺生やわ、三山さん無理やり割り込んでくるんやもん。ほんまにムッとくるわ」
 ようやく課長に酌をしてその場を離れた岩崎が耕作の元に来て愚痴を言った。
「年功序列だから仕方がない」
 照れながら耕作に訴える岩崎を、冷たく突き放すような口調でたしなめてから耕作は徳利を右手に持って立ち上がった。

 一次回は様子を探る会である。ここで調子に乗ってガブ飲みすると後々の評判を落とすだけの結果にしかならないし、二次会のお呼びも掛かってはこない。一次回で課長を酔わせて気分良くさせるだけさせて二次会の費用を出させるのである。課長は気に入った部下だけを連れて、経費で落とすことのできるホームグラウンドの店に行く。いわばファミリー宣言をするのである。ここで仲間外れにされると挽回のチャンスはなかなかやってこない。田舎出張所のドサ回りという冷や飯食いの待遇が回ってくるだけである。
 誰も課長の若い頃の自慢話と調子外れのカラオケを聞かされるだけの二次会に行きたいなんて思っていないだろうが、誘われれば揉み手をしながら喜んで付いて行く。
 課長がヘベレケに潰れ、タクシーにでも押し込んでからが本当の営業一課の飲み会になるのである。 一次回が終わると、課長は「帰るぞ」と宣言した。
 その場にいた人間は怪訝な顔をした。別に課長の気分を害したわけでもなかった。
 ようするに、耕作の会社も世間並みに景気がおもわしくなく、課長の経費も削られていたのだった。
 残った人間はあきらかに拍子抜けした様子だった。仕方無く残った人間で飲み直そうかという声も上がったが耕作はそんな連中の輪から外れ、帰るつもりでいた。
 今なら終電までたっぷりと時間がある。昨年は深夜まで飲み続けビジネスホテルに泊まり込んで無駄な金を使っていた耕作にとっては願ってもない展開であった。しかも、耕作には前々から考えていた計画があった。
               
 しつこく誘う岩崎を振り切り、耕作は駅に向かった。セーブして飲んでいたから足元もしっかりとしていた。突然ダッシュしても目まいすら起こさない自信があった。万全の体調である。

 ホームに立った耕作は本当なら乗るべき電車を二本も見送った。
 そして三本目。
 金髪・ピアスのアベックが電車に乗るため行儀良く並んでいた人々の列を無視するかのように乗り込もうとしていた。
 好機到来。
 耕作はわざと千鳥足で電車に乗り込んだ。 アベックと同じ車両に乗り込んだ耕作はアベックが座った椅子の前にある吊り革に、ネクタイを緩めてしがみついた。
 いかにも酔っ払いという風情の耕作であった。
 目を閉じ、耕作は立ったまま眠った振りをしていた。電車が揺れるたびに倒れそうになりながら大きく体を揺らせていた。
 耕作には特技があった。特技と言うのもおかしいかもしれないが耕作は喉の神経が人よりも過敏にできているのだった。

 回りの視線を無視して二人だけの世界に入り込んでいちゃつく金髪・ピアスカップル。 電車の中は疲れ切った人々が発する怠惰な雰囲気が充満していた。それはまるでガスの抜けた炭酸飲料のような感じがした。
「ウッ」
 耕作の、尖らせた口から安物の料亭で胃の中に押し込んだ食べ物と安酒、そして溜まり切った鬱憤が一気に爆発した。
 噴水のようにゲロが吹き出した。ゲロは空中に噴射され、そして引力で引き戻され放物線を描きながら落下する。その落下地点には目をテンにして耕作を見つめるアベックの男の顔があった。
「うわぁ〜」
 耕作のヘドを頭から浴びた男は声にならない叫び声を上げていた。隣に座っていた女はゲロまみれの男から逃げるように腰を浮かせていた。しかし女の肩にも耕作のゲロはすっぱい異臭を放ちながらしっかりとふりかかっていた。
 二人の驚愕の表情を見ながら、耕作はその場に倒れ込んだ。もちろん、ゲロを噴出させながら。

 ゲロの水溜まりに顔を突っ込んで意識を無くした演技をする耕作の表情には不敵な笑顔が浮かんでいた。
 天誅!
 ゲロの中で、耕作は人生最高の幸福感に包まれていた。

 もちろん、金髪・ピアスの男はそんな耕作に文句も言うことができなかった。